今日は京王相模線で京王永山駅まで行き、そこから走った。
走り出しはまだまだ明るかったが、雲行きがなんとなく不安だった。
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松が谷トンネル内で、多摩市から八王子市へ。
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あっさり八王子に入ったから、このコースは短すぎたかな、と思ったが大間違い。
ここからが1時間以上かかった。あたらめて八王子市の広さを実感。
次第に夕暮れがすすむ。雨の心配はなさそうで安心。
夕焼けは見ることができなかったが、千切れ雲が気持ちよさげだった。
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さて、夏季スクも最初の一週目が明日で終わり。明日は試験だ。
李白の詩をもう一編。
峨眉山月歌 峨眉山月の歌
峨眉山月半輪秋 峨眉山月 半輪の秋
影入平羌江水流 影は平羌の江水に入りて流る
夜発清渓向三峡 夜 清渓を発して 三峡に向かう
思君不見下渝州 君を思えども見えず 渝州に下る
峨眉山の夜空にかかる半輪の秋の月よ。
その影(ひかり)は、ここ平羌地方の長江の水にさし入り、
江水とともにきらめき流れてゆく。
舟は夜半、清渓の駅を発ち、遠く三峡に向かうのだ。
君を思いつつ見ることもかなわず、むなしく渝州へと下ってゆく。
「影」は月光であり、月影である。
和語でも漢語でも「影」は「ひかり」と「かげ」の両義を含む。
「光と影」と言えば、普通は良いことと悪いことの象徴的な表現であるが、
実は光は影であり、影は光。光があれば影がある。影のない光は存在しない。
なんだか、生き方の啓示のようではないか。
それにしても、李白という詩人は、ロマンチストなんだなと思う。
この「峨眉山月の歌」は、紛れもなくラブレターじゃないか。
遥かに遠い地にいても、月だけは同じものを観ることはできる。
周りの景色がどんなに違っていても、月だけは唯一無二の同じ月だ。
そう考えれば、離れて暮らす者同士も、月を介して距離を縮めて思い合う事もできる。
鏡のような、とは綺麗な月を称してよく使われる表現だが、
もしも月が本当に鏡だったら、時を同じくして眺める者同士は
もしかしたら互いの姿を確かめ合うことだって出来るのでは―。
李白はそんなことを考えたのかもしれない。
けれど、残念ながら今宵の月は半輪。
片側にこちらの思いを託しても、もう片側は影になってしまっている。
「ひかり」と「かげ」とが相まって、愛しい人を思いつつも、
結局、見ることはかなわなかった…。
「君」は山月を指すとするのが通説だというが、
おれは断然、峨眉(蛾眉=美しいひと)の説であると思うなあ。
窓からは、ちょうどまん丸の月が見える。
今宵はおれも、月と自分の影と、それから李白の詩を友として招きよせ、
四人で車座になって酒でも酌み交わすとするか。
<今日の練習内容>(昼休みラン)なし。
(帰宅ラン)京王永山駅から、18.0km。(鑓水経由)
<今日のデータ>今日の走行距離 18.0km
今日まで 49.0km
平均 12.2km/日
体重 62.5kg
体脂肪率 8.0%